It's a honey sunny day

 赤く色付けした生地を手に取り、指で薄く伸ばし丸く整える。そうしてできた花弁たちを、粘土細工のように丁寧に貼り合わせれば薔薇になった。
 少し歪なのはご愛嬌。きっと10人中10人、これは薔薇だと言ってくれるだろう。ナナは手のひらの中の作品を惚れ惚れと見つめた。ビューティフル。初めてにしてはなかなかいい出来なのではないか。
「……これはなんですか?」
 隣から急に声がして、ナナはびくりと肩を揺らした。集中していたから人が来たことに気づかなかった。誰だろう、と横を見て血の気が引いた。そこには「あの」エルが立っていた。
 ワイミーさんに引き取られた初日に、絡んできた上級生たちをぶちのめし、その協調性のなさから一人部屋を許可されたという、ワイミーズハウスいちの問題児。周りを見回すが、キッチンにはナナとエルしかおらず、助けも求められない。ナナは震え上がりながらも口を開いた。
「マ……マジパン……」
 エルはナナの答えに指をくわえた。
「マジパン? それって砂糖とアーモンドに卵白などを混ぜて作るやつですか?」
 妙に詳しいなと思いながらも「うん」と頷く。
「食べてもいいですか?」
「えっ!」
 そんな質問が出てくると思わず、ナナは声をあげる。そっと左手で右手の薔薇を隠した。
「だ、だめです。これは私が初めて作ったものだから、私が食べたい……」
 怒ったらどうしよう。でもどうしてもそれは譲れなかった。はらはらとエルを見るも、エルは「そうですか」とあっさり納得したようだった。
「じゃあこの生地を、ちぎって食べてもいいですか?」
 ボウルに入った赤い生地を指さし、エルは言う。「それならいいよ」とナナが言えば、エルは指で少しちぎり口に入れた。ナナはもぐもぐと咀嚼するエルを見つめる。さあどんな言葉が出てくるのだろう。エルは言った。
「……甘いですね」
「う、うん、甘いだろうね……」
「甘いです」
 エルはもう一度そう言うと、キッチンから出ていった。
 何だろう、このもやもやは。期待していたわけではないのだが、もっと味に関するコメントはなかったのだろうか。いや、期待はしてなかったけど。
「綺麗な色ですね」
 キッチンの戸口から、ワイミーさんが顔を出した。ナナはくたりと台に寄りかかった体をぴんと起こして、「ありがとうございます」と礼を言う。ワイミーさんはナナを引き取ってくれた張本人であり、ワイミーズハウスの創始者でもある偉い人だ。中に入ってきたワイミーさんは、ナナの手のひらを見た。
「……薔薇ですか」
「はい」
「マジパンは初めてでしたか?」
「そうです」
「それにしては綺麗に作りましたね」
 ナナはまた礼を言う。
「さっきエルがいたと思いますが、何もなかったですか?」
 なるほど、とナナは思った。ワイミーさんはそれを聞きに来たのだ。
「……この生地をちょっと食べて、甘いって言ってました。それ以外は何も」
「そうでしたか」
 ワイミーさんはにこやかに頷いた。
「またエルが来たら、普通に接してください。何も怖がることはありません、あの子はナナと同い年ですから」
 ナナがワイミーさんを見上げたタイミングで、「では」とワイミーさんは去っていった。
 ワイミーさんはよく、こんな風に心を見透かすようなことを言うから、苦手だ。ナナにとっては大恩人なのだけれど、どうしてもそう思うことを止められない。
 さて、とナナは薔薇を見つめる。花弁をひとつとり、ぱくり。うん、たしかに甘い。マジパンは美味さを求めるものじゃないからなあ、とナナは自分を納得させた。

 エルはたまにキッチンに現れ、ナナの作るものを盗み食いしていった。ある時は生クリームの付いた泡立て器の先を、そのまま舐めようとしたので慌てて止めた。エルは行儀が良くないらしい。
 加えて味の感想は「甘い」以外に言わなかった。エルの舌は甘いか甘くないかだけを判別するのであって、旨みを感じないのだとナナは考えた。ハウスの皆は「美味しい」と食べてくれるので、味が悪いというわけではなさそうだった。
 ある日曜の午後、ナナはシュークリームに挑戦していた。過去2回焼いているが、一回目は膨らまず、2回目は膨らんだがすぐに萎んでしまった。今度はどうだ、とナナはオーブンの中を見つめる。一回目は卵が足りなかったから膨らまなかった。その点はクリアしていると思うが――。
「シュークリームですか?」
 ぺたぺたと音をさせながら、エルが中に入ってきた。
「そう。膨らむといいんだけど……あ! 膨らんだ!!」
 シュー生地はみるみるうちに膨らんできた。ナナはやった! と飛び跳ねた。自分を無感情に見ているエルの肩を軽く叩く。
「第一関門は突破だよ! あとは割れ目に焼き色が付くまで待たないと……」
「あと何分くらいですか?」
「うーん、15分くらいかな」
「そしたらここで待ちます」
 エルは近くにあった丸椅子に片膝を抱えて座った。
「でも、冷まさなきゃいけないから、食べるんだったらもっと時間かかるよ」
「じゃあ、できたら持ってきてください」
 そう言ってエルはまたぺたぺたと去っていった。相変わらずマイペースだ。
 振り返って、ふと台の上のカスタードに目がとまる。いつもならばカスタードだったり生クリームを舐めて終わりなのに、今日は出来上がったシュークリームを食べようとしていた。ナナは笑みが込み上げてくるのを抑えられなかった。
「えー……うれし」
 これは失敗できない。ナナは椅子に座り、オレンジに照らされている生地を見守った。

 こんこん、とエルの部屋を叩く。ナナの手に持つ皿には出来たてのシュークリームが二つ。シュー生地は萎むことなく、ぱんと張っている。念の為ひとつ味見したが、味も問題なく美味しい。
「はい」とエルの声がする。
ナナだよ、開けていい?」
「どうぞ」
 ナナはゆっくりとドアを開けた。大きなパソコンが床の上に直置きされ、その前でエルは猫背で画面を見ていた。その隣に座り込む。
「いつもこんな体勢なの?」
「これが落ち着くんです……ありがとうございます」
 シュークリームの皿を置くと、エルが礼を言った。ナナは驚いてエルを見つめる。エルってお礼が言えたんだ。
「食べていいですか?」
「いいよ」
 エルはシュークリームを両手の人差し指で持つと、がぶりと歯を見せてかぶりついた。ナナはどきどきしながらその様子を見る。お礼の言葉も聞けたし、今日はもしかしたら聞けるかもしれない。エルは口を開いた。
「……甘いですね」
 ナナはがっくりと肩を落とした。
「甘い……か」
「はい、甘いです」
「美味しくは……ない?」
 エルは考えるように上を向いた。
「美味しいか美味しくないかで言ったら、美味しいです」
「やっぱり!?」
 ナナはエルの片手を両手で握った。
「その言葉を聞きたかったの! よかった、聞けて……」
「…………」
 エルはぽかんとした様子だったが、やがてするりとナナの手の中から自分の手を逃した。
「……もっと食べていいですか?」
「うん! これも食べて」
 ナナは咀嚼するエルをにこにこと見つめた。エルはナナの視線を気にすることなく、大きく口を開けて平らげた。
「……ごちそうさまでした」
「うん! ……エルはパソコンで何してるの?」
 画面には数値がずらりと並んでいた。気になって尋ねると、指についたカスタードを舐めながらエルは言った。
「マネーゲームです」
 マネーゲームがよくわからなかったナナは、「へえー」ととりあえず相槌を打った。
「エルって頭いいんだね、私見ても全然わかんないや」
「……ナナさんはお菓子作りは楽しいですか?」
 ナナは名前を呼ばれたことに面食らった。それから聞かれたことを反芻して答えた。
「楽しいよ! 私、パティシエになるのが夢なんだー」
「そうですか」
「……エルはマネーゲーム楽しいの?」
 尋ねてみると、エルは少し考え込むように人差し指を口元に置き、それから言った。
「……お金が増えていくのは、楽しいと思います。ただ最近は飽きてきました」
「そうなの?」
「はい……なのでハックして非公開の情報を盗み見たりして暇を潰してます」
 また知らない言葉が出てきたが、ナナはまた「へえー」と相槌を打った。それはいけないことのように思ったけれど、指摘はしなかった。きっとワイミーさんが監視しているだろう。
「なんかエルって……すごいね!」
「すごい?」
「私パソコンなんて触ったことないからわかんないけど、次元が違うことしてるってわかる。エルは将来すごい人になるよ、絶対!」

 ナナの言った通り、エルはすごい人になった。FBIや警察を駒として動かせる権力を持つ、世界的名探偵になった。
 ナナはといえば、ロンドンの小さなケーキ屋で、パティシエとして働いていた。その店は裏路地の、住居に挟まれた本当に小さなケーキ屋だった。ナナは店がこじんまりとしていてかわいいことも、優しい老夫婦が切り盛りしていることも、ナナの創作したお菓子を店に並べてくれることも、すべて含めて大好きだった。
 夢だったパティシエになれて、気に入っているお店で働けるのなら、これ以上の幸せはないとナナは思っていた。パティシエのコンテストなどはあったが、自分の腕を試そうとはまったく思わなかった。ありがたいことに常連さんがいて、細々と生活出来ればそれでよかった。
 そんな日常が切り替わったのは、日差しの強い夏のある日のことだった。
ナナにお客さんだよ」
 厨房に姿を現した奥さんに、ナナは手を止めた。
「誰ですか?」
「キルシュ・ワイミーさん。知り合い?」
「えっ、はい」
 ワイミーさんが今、どうしてやってきたのだろう。不思議に思いながらも急いで手を洗い、カウンターへ出た。
「こんにちは、お久しぶりです」
 黒の帽子を片手に、白髪の老紳士が頭を下げた。ナナも「お久しぶりです」と会釈する。
「ちょっと、よろしいですか?」
 ワイミーさんと連れ立って、店の外に出た。じりじりと肌に熱気がまとわりつく。閑静な住宅街のため、辺りに人影はなかった。日差しを手で遮りながら、ナナは尋ねた。
「どうしたんですか、急に……」
「すみません。エルが、ナナの作ったお菓子を食べたいと言いまして」
「えっ?」
「一度、エルのところへ来ていただけませんか?」
「それは……構わないですが……」
 エルがなぜそんなことを言うのか、ナナはわからなかった。シュークリームの後も、マカロンなどを作ってエルに持って行っていたけれど、本人はナナが要求しなければ「美味しい」とは言ってくれなかった。エルが捜査に夢中になってからは、邪魔しては悪いかと食べさせるのをやめていた。
 ワイミーさんはナナの休みを確認すると、その日にナナのアパートまで迎えに来ますと言った。了承すると、「では」とワイミーさんは去っていった。
 ワイミーさんもなかなか強引な人だよなあ、とナナは後ろ姿を見ながら思う。昔からエルには過保護で、贔屓だと言う子もいたっけ。でもそれだけエルは特別だった。ワイミーさんの贔屓が許されるほど、才能に恵まれていた。そんな天才が、凡人のお菓子を食べたいなんて、不思議な話だ。
 ナナは高い空に向かってぐんと伸びをして、店に入った。

 連れてこられたのは、地下のシェルターのようなところだった。車に乗る際、目隠しをさせられたので正確な位置は知らないが、エルのために作られた秘密基地のような場所なのだろう。
 エルは捜査の真っ最中らしく、ナナは先にキッチンへ通された。そこはナナの働く店よりも大きな厨房だった。
「材料はそこの棚と冷蔵庫に入ってます。エルからは何を作って欲しいとは聞いてません。作るものはナナに任せます」
「……わかりました」
「では、できたらこの電話の発信ボタンを押してください」
 PHSのような携帯を渡される。ワイミーさんも忙しいらしく、「楽しみにしてます」と言って去っていった。
 とりあえず材料を見る。基本となる小麦粉、砂糖、卵などの他、サントノーレ絞りのための口金や小豆まであった。ここまで豊富に材料があれば、何でも作れそうだ。うーんと腕を組む。しばらく悩んだが、ピンと来たものがあった。ナナは持ってきたエプロンを首にかけて結んだ。

「エル、ナナが来てくれました」
 ワイミーさんの後について中に入る。そこにはたくさんの画面に向かうエルがいた。相変わらず痩せていて、髪はツンツンしていて、猫背で、白の長袖にジーンズを着ていて、裸足で、変な座り方をしていた。
 振り向いたエルに、ナナは「あ」と心の中で気づく。真っ黒な瞳と隈は変わらないけれど、以前よりも目鼻立ちがはっきりしている気がする。なんとなく彫りが深くなったような。
 エルはひょいと立ち上がり、ナナの元へやってきた。
「お久しぶりです、ナナさん」
「……久しぶり。元気だった?」
「はい。突然すみません、ナナさんのお菓子が急に食べたくなりまして」
「ううん、私も暇だったから……作ったよ」
 ワイミーさんが押してくれていたトローリーを指す。豪奢な皿に乗っていたのはシュークリーム。ナナは最初にエルに食べさせたお菓子を作った。エルは「シュークリームですか」と、平坦な声で言った。感情が見えにくいのも相変わらずらしい。
「食べましょうか」
「どうぞ」とソファを案内されて座ると、エルはナナの向かいに両足を乗せて座った。ワイミーさんが皿とソーサー、カップをテーブルに置き、紅茶をいれてくれた。すっかり執事が板についているようだった。ワイミーさんは「ごゆっくり」と頭を下げて部屋を出ていった。
「いただきます」
 エルはシュークリームに手を伸ばし、一口食べた。エルがそれを飲み込むのを、ナナは緊張しながら見つめた。エルは言った。
「……甘いですね」
 ふっ、とナナは吹き出した。笑っているナナを、エルは不思議そうに見る。
「どうしました?」
「いや、相変わらずだなあと思って……美味しい?」
「はい」
「美味しいって、言って?」
「……美味しいです」
「ふふ、ありがとう」
 ナナは紅茶を飲んだ。冷房が適度にかかっていて、温かい紅茶を飲んでも暑くはならない。
 二つ目のシュークリームに取り掛かっているエルに問いかける。
「……なんで私のお菓子が食べたくなったの?」
「わかりません」
「えっ?」
「ただ、ナナさんのお菓子を食べたくなったから……としか言いようがありません。ですが、こうして久しぶりにナナさんのお菓子を食べて気づきました」
「……何に?」
ナナさんのお菓子は、懐かしい味がします」
 懐かしい味。
「市販のものに比べて、出来たてだからか、美味しくもあります……毎日食べていたいと、そう感じます」
 ナナは目を見開き、それから照れて下を向いた。毎日食べたいだなんて、プロポーズじゃあるまいし。
「……ナナさんはハウスから出た後は、ずっとロンドンのお店に?」
「うん……あのお店が大好きなの」
「コンテストなどに出ようとは思わないんですか?」
「思わないな……自分の腕試しとか、そんなのに興味なくて。ただ、エルみたいに、私の作ったものを喜んで食べてもらえればそれでいいの」
「そうですか」
 エルは指先についたカスタードを舐めて、言った。
「でしたら、私もナナさんのお客になりたいです。暇な時でいいので、こうしてお菓子を作っていただいてもいいですか?」
「えっ、うん。いいよ」
「ありがとうございます。嬉しいです」
 エルは本当に嬉しいのかよくわからない、感情のこもらない顔と声音で言った。
「……その代わり」
 ナナはにこやかに微笑む。
「私のお菓子を食べたら、第一声は『美味しい』って言ってね」
「……わかりました」

 それからナナは、休みの日の暇なときは、ワイミーさんに連絡して、エルの元に行くようになった。その度に違うお菓子を作って提供した。お店では材料費のせいで作れないお菓子も、エルの財力で作れるようになった。最初はエルのために凝ったお菓子を作っていたが、そのうちあまり時間のかからないものを選んで作るようになった。理由は、エルとの時間をもっと過ごしたいという、ささやかな恋慕だった。
 ナナはいつの間にか、エルを好きになっていた。もしかしたら最初に地下に来てエルと目が合った時から、もしかしたらエルが初めて成功したシュークリームを頬張った時から、好きになっていたのかもしれない。
 エルには絶対に気づかれないよう、細心の注意を払った。ふいに目が合っても、冷静にその黒い目を見つめた。エルは世界的な探偵で、自分はどこにでもいるパティシエなのだという自覚を忘れなかった。この気持ちがエルに伝われば、二度とエルと会えなくなるだろうという予感があった。自分の恋心はエルにとって重荷以外の何物でもないからだ。
 ナナは眠れない日が続いた。この恋は実らないとわかっていても、エルのことを思うだけで胸がきゅっと締め付けられ、幸せな気分になった。ナナは毎日自分の感情と葛藤した。しばらくエルと距離を置こうかと思い始めた矢先、転機が訪れた。
 それは、寒さが本格化してきた、12月のことだった。

 はっと目が覚めたナナは、二、三度瞬きをして、ここがエルの部屋だということに気づいた。がばっと体を起こすと、掛けられていた毛布が落ちる。ソファの上で眠ってしまったらしい。
 エルはと言えば、いつもの椅子の上で画面を前にして眠っているようだった。エルには何もかけられておらず、もしかしたらこの毛布はエルがかけてくれたのかもしれなかった。ナナはそっとエルに近づき、毛布をかけてあげた。その寝顔は綺麗で、ナナは思う存分見つめる。
「……好き。エルのことが、好き」
 ナナは自然と口に出していた。囁きとも取れる、とても小さな声だった。
 瞬間、エルの目がぱちりと開いた。ナナは動揺し、逃げようとしたが、エルの手がナナの腕を掴んだ。
「……ナナさん」
 ナナはエルの顔を見れず、ドアを向いたまま「うん」と答えた。
「こちらを向いてください」
 渋々振り返る。エルはいつもと同じ、何を考えているのか分からない表情をしていた。
「……聞こえた?」
「はい」
 うう、とナナは掴まれていない腕で顔を隠す。どうしよう。きっと顔が赤くなっている。
「……き、聞こえなかったことにして」
「そんなことはできません」
 エルの声はいつになく真剣で、ぱっとナナは腕を下ろした。黒い瞳はまっすぐに自分を見ていた。
「でも、エルは世界を背負ってて、私のこんな気持ちなんて邪魔なだけ……」
「邪魔ではありません」
 エルは言った。
「……ですが、ナナさんの気持ちに対する私の答えを言うことはできません」
「やっぱり――」
「違います」
 エルはナナの言葉を遮った。
「私は、近々日本に行きます」
「えっ?」
「もしかしたら、私の身に何かあるかもしれません。そう考えると、私がナナさんに今この場で答えることはできません」
「……危険な捜査なの?」
「……はい」
 エルは頷いた。ナナは頭が真っ白になった。どうして、エルはそこまで自分の身を捜査に捧げられるのだろう。
「エル、こないだ捜査はゲームだって、言ってたじゃん。自分の身に何かあるかもしれないなんて、そこまで深入りするものなの……?」
「……たしかに言いましたが、私は人の命を背負っていることを忘れてはいません。そして日本での事件は不可解な点が多く、難航すると思います。その過程で、私は命を落とす可能性が高い」
「そんな――ああ、エル――」
 ナナは衝動的にエルを抱きしめた。抱きしめてみると、胸板の薄さや角張った肩、温かい体温が初めてわかった。エルは、ナナを抱きしめ返さなかった。
 ナナはエルの頭をそっと撫でて、囁いた。
「――どうか、生きて帰ってきて」

 ナナの願いは叶わなかった。エルはキラに敗れ、ワイミーさんと共に亡くなった。
 ロジャーから話を聞いたナナは、ひどく取り乱し、声を上げて泣いた。それは多くの子供を見てきたロジャーでさえも、心配になる泣き方だった。しかし、ナナはロジャーから渡された一枚の手紙で、泣き止んだ。読み終えたナナは、絨毯からゆっくりと立ち上がり、しゃんとロジャーを見据えた。
「……ロジャーさん、手紙を、ありがとうございます。この手紙はもらっても……?」
「もちろん。それはナナへの手紙だ」
 ナナは壊れ物を扱うかのように、そっと便箋を封筒の中に入れた。
「取り乱して、すみませんでした……私、帰ります」
「……送っていこうか?」
「いえ、大丈夫です」
 ナナの表情は以前と同じく、柔らかいものになっていた。ロジャーはそれに安堵し、ナナの背中を見送った。

 翌日、ナナは買い物をするべく家を出た。今日はお休みで、一日家で塞ぎ込むこともできたが、ナナはそうしなかった。なるべく外の世界に触れていたかったし、手紙のおかげで、気持ちは前を向いていた。11月の空気は乾燥しており、透き通った青い空が遠くに見える。
 スーパーで夕飯の材料を買い、その袋を持ちながら帰路を歩く。点在する店をぼんやり眺めていると、ふと白の薔薇が目に付いた。花屋の店先に生けられたその薔薇は、赤の薔薇よりもなぜか目立って見えた。そういえば、エルと初めて話したのは、薔薇のマジパンがきっかけだったっけ。懐かしく思い、薔薇へ屈む。白の薔薇はほんのり青みがかっていて、背筋を伸ばしてこちらを見ていた。
「ご入用ですか?」
 女性の店員に声をかけられる。ナナは深く考えず、「この薔薇を一本ください」と答えていた。
 手紙をくれたエルへの、手向けの花にしよう。そう思って。

 20260115